『子どもが「発達障害かも」と言われたら・・・』への感想と親への支援に思うこと

2018年4月16日のあさイチで「シリーズ発達障害 子どもが「発達障害かも」と言われたら・・・」という、発達障害に関する特集が放送された。それについて、少し書きたいと思う。

好きな食べ物がバラバラなように、同じ診断を受けていても、得意なこと・困っていることは人それぞれ。このブログに書かれていることは、発達障害者みんなが感じていることではない。私が思い、考えていること。たった一つの事例。

私と同じことで困っている人に、私のような人を理解したいと思う人に、届いたら嬉しいと私は思う。

知識がないだけ

コメンテーターとして登場して、多くの意見を発していた中山さんがTwitter上でそれなりに叩かれていた。実際私も見ていて辛かった。でも、知らない人からしたら「発達障害」って、あんなものだと思う。少し前の私も、きっと似たような認識だった。

悪意はないけれど知識が無いゆえ、自覚なしに当事者や家族を傷つけてしまう。これは発達障害に限った話ではない。

中山さんの発言は、「知識がない一般の人」のテンプレコメントそのもので、「あぁ、やっぱりそう思われているんだね」と、現実を再認識させてもらえた気がする。彼のような知識の無い人たちに、どうやったら知ってもらえるか。それが当事者や支援者の今後の課題だ。

NHKの番組を通して彼の認識がどう変化していくのか。私はとても興味を持っている。

「個性」か否か

少し気になったのは、「発達障害は個性だ」という“親御さん”からのFAX。個性だと言われて育てられた子供が、社会に出て、その「個性」を否定されたら、どんな気持ちになるのだろう。そう考えると、少し胸が痛んだ。

もちろん「個性」という考え方は大切だし、私も私なりに悩んで「個性」としてとらえることに落ち着いた。でも「障害」という考え方も私の中ではちゃんと育っている。

障害の重さにもよるけれど、長い人生を当事者として生きていくのならば、「個性」も「障害」も、どちらの考え方も持ち合わせていたほうが、楽に生きられるのではないだろうか。

この環境では、私の特性は「個性」だな。この環境では「障害」だな。「障害」のままは辛いから、「個性」になるように方法を探してみようかな。相談してみようかな。

スペクトラムの考え方のように、「個性」と「障害」が混ざりあった状態で、折り合いをつけて生きていけたらなと思う。

親への支援

最近、家庭環境が子供の脳に与える影響を学んでいる。その影響は私が考えているより、遥かに大きいものだった。

友田明美先生による概説記事。わかりやすい言葉で要所がまとまっているので、興味がある人は読んでみて欲しい。

体罰や言葉での虐待が脳の発達に与える影響
https://psych.or.jp/publication/world080/pw05/

子ども時代をそれなりに苦労して過ごした当事者として、「どうして発達障害児へのサポートは、対本人ではなく、対家族・学校への支援が目立つのだろう?」と疑問に思うことが多かった。しかし、これらを学びはじめて納得がいった。

特に発達障害を持つ子どもたちは「世界の捉え方そのもの」が、多数派の人たちと異なっていることが多い。特性を保たない子どもであれば何ら問題のない行動であっても、彼らは心に大きな傷を受けてしまうことがある。

だからこそ、周りの大人を支援しなければならない。

愛情は何もないところから無限に湧き出すものではない。しっかりとした土台、そしてそこに降り注ぐ他者からの支援があってはじめて、子どもへ十分な愛情を注ぐことができるのだ。

私の子供の頃から、発達障害をとりまく支援はずいぶん進んだように感じる。けれど、まだまだ足りない。まだまだ、これから。わたしにできることは、何かあるだろうか。

頼れる人もなく、宙ぶらりんで悩み続ける親御さん達のメッセージを見ながら、そんなことを思ったのだった。

さて、明日は何を書こうかな。