はじめに言っておくけれど、これは救いのない文章だ。何か、いい感じの結末を期待している人は読まない方がいいと思う。
私と同じことで困っている人に、私のような人を理解したいと思う人に、届いたら嬉しいと私は思う。
でも、何か得意なものがあるんでしょう?
「発達障害を持っている人には、何か特別な才能がある」そんなふうに考えている人は多いように感じる。
ずば抜けた才能を持っている人も、中にはいるのだろう。本を出したり、テレビに出たり、特定の分野で成功したり。物語の主役を飾るのも「特別な才能を持つ」発達障害者だ。
でも「特別な人」の裏には、数え切れない「ごくごく普通の人」たちがいる。
障害を持つ人の多くは、支援や薬や便利グッズの力を借りて、毎日を懸命に生きている。もしかしたらそういった支援・知識にたどり着くこともできず、日々苦しみながら生きている人の方が多いのかもしれない。
「人並み」を目指しながら、なんとかがんばって生きている。それが現実だ。
極端な成功例
発達障害を持っている人として(実際に診断を受けたという証拠がないにもかかわらず)アインシュタイン、エジソン、スティーブ・ジョブズなどの偉人が紹介されるのを、よく目にする。
あれは本当にやめてほしい。
仮に彼らが発達障害者だったとしても、彼らは「偉人」だ。しかも、人類史に残るような「偉人」。もはや障害の有無を超越した存在なのである。例として出すには、あまりに極端すぎる。そこまでしなければ、発達障害者は肯定してもらえないのか。
最近、セサミストリートに新しい仲間が加わった。ジュリアという自閉症の女の子だ。かわいいし、わかりやすいし、とても良いことだなぁと思う。でも1つだけ気になったことがあった。それはジュリアには秀でた絵の才能があったこと。どうして普通の女の子にしなかったんだろう。どうして特別な才能が必要だったんだろう。
こうした特別な才能は「発達障害を持っている人にも良いところがあるんだよ」というニュアンスを含んでいるように感じる。
私はこれがとても嫌だ。
私の思考が偏ってるのはわかっている。勝手な被害者意識があるのかもしれない。でもなんだか嫌なのだ。「何か特別な才能があるんでしょ?」って、「特別な才能」に価値を見出されるのが。
わかっている。「良いところを活かしましょう、認めましょう」「環境さえ整えば、才能を発揮できる人がいるんです」というフォローだということも。でも、そのフォローは残酷すぎはしないだろうか。
「特別な才能のない人」はどうすればいいのだ。
“普通”の人たちの中に、特別な才能を持つ人が少ししかないのと同じで、発達障害者の中にも、特別な才能持つ人・それを活かせる人なんて少ししかいない。
もし、何か秀でたモノがあるならば、それは多くの場合、本人が努力した結果だ。誰かにプレゼントされたものじゃない。
天才と凡人の割合は、“普通”の人たちと、そう変わらないのではないか。
特別な才能があろうとなかろうと、眼の前にいる人をただ見て欲しい、と私は思う。
ただ生きている
特別な才能?
そりゃ、あったら素敵だろうけど。
でも、そんなもの、ないコトの方が多いよ。もし、それっぽいのがあっても、その人ががんばった結果だよ。だって、脳のはたらきが少し変わってるだけの、普通の人間だもの。
できないことがちょっと多めな、ただの人間だもの。
あなたと同じ、人間だもの。
才能ある人をテレビでみた?そうだね、そういう人もいるだろうね。でもそれは、たまたまその人が才能や環境に恵まれてたってだけで、あなたの近くにいる発達障害者がそうとは限らない。あの人達は発達障害者の中でも「特別」だから、テレビに出ているんだよ。
あなたの身近なその人、Aさんだか、Bちゃんだか、Cくんだか知らないけれど、どうか発達障害というフィルターを通さずに、その人を「ひとりの人間」としてみて欲しい。
特別な才能なんてなくったって、笑顔が素敵かもしれない。優しく手を握ってくれるかもしれない。ものを食べる仕草が可愛いかもしれない。花を育てるのがうまいかもしれない。あなたと同じものが好きかもしれない。いろいろな話をしてくれるかもしれない。飛ぶように走るかもしれない。元気にあなたの名前を呼んでくれるかもしれない。何かに少し詳しいかもしれない。寝顔が愛おしいかもしれない。あなたのことを、いつも気にかけているかもしれない。一緒に悩んでくれるかもしれない。いつでもそばにいてくれるかもしれない。そばにいるだけで、幸せな気持ちになれるかもしれない。あなたのことを誰より愛しているかもしれない。
特別なことなんて、なにも、ないかもしれない。
でも、その人は生きてる。その人らしさを抱えて、一生懸命生きてる。あなたと同じ、ただ生きている。
あなたと同じ、ただ生きている。
さて、明日は何を書こうかな。