ASDとADHDの診断を受けた日の思い出。

これからの人生、この身体でやっていくのだし、生き方も変わるのだろうし、当事者としてはじまりの気持ちも残しておいたほうがいいかな、と思って。

好きな食べ物がバラバラなように、同じ診断を受けていても、得意なこと・困っていることは人それぞれ。このブログに書かれていることは、発達障害者みんなが感じていることではない。私が思い、考えていること。たった一つの事例。

私と同じことで困っている人に、私のような人を理解したいと思う人に、届いたら嬉しいと私は思う。

私は自分の状態を診断書で知った。

テストを受けたり、カウンセリングを受けたり、薬を処方してもらったり。なんとな~く、やんわ~り把握していたけれど、一番ハッキリと私を定義してくれたのは診断書だった。

受付のおねーさんが「お名前や住所の確認をお願いします」って、さらっと持ってきてくれた診断書。

あまりに唐突で、名前も住所も確認しないまま「あっ、はい。大丈夫です」なんて答えた。診断書が封筒にしまわれても、疾患名だけは目に焼きついていた。

先生たち からじゃないんかい。

まぁ、そういうものなんだろう。

窓の外を眺めるふりをして、頭の中の文字を確認した。

えー、そうなんだ。まぁ、そういう扱いされていたし、そうなんだろうとは思ったけど、えー、本当かなぁ。だってわかんないじゃん、全部私の演技かもしれないじゃん。えー。でも、先生たちがそう言うならそうなんだろうなぁ。向こうもプロだし、私みたいな人たちばかり診ているんだろうし、いや、でも、そうかー。えー(以下略)

明らかに混乱していて、受容できていないようだった。

自分で疑って通院しはじめたのに。通院当初から、ふんわ〜……いや、わりとハッキリと伝えられていたのに。おかしいな、「私はわたしだ」なんつって、受容できているつもりだったのに。

物理(診断書)の力はつよかった。

診断書をもらったあの日から、もう1ヶ月くらい経っただろうか。正直、今も気持ちはそんなに変わっていない。たぶんしばらくはこのまま。あぁ〜、生物学的な数値で、もっと手軽にキッパリハッキリわかったらいいのに。そうすれば納得できるのに。

……こういうところが、そうなんだろうなぁ。

私の気持ちは、どれくらいの時間をかけて、どのように変化していくのか。一つの事例として残していきたいと思う。残さないかもしれないけれど。それもまた。

さて、明日はなにを書こうかな。