私が愛した夜間学部の話。

夜間学部の思い出

今日は好きなものの話をしたい。私の通った夜間学部の話だ。少し長くなるから、時間のあるときにでも読んでもらえると嬉しい。

 

私は10年前、早稲田大学第二文学部を卒業した。

卒業後、文学部全体の再編が行われ、私の学部は無くなった。夜間学部もなくなった。この10年で校舎の多くが改築され、キャンパスに当時の面影はない。

かつて存在していて、いまは失われてしまった学部の話を、ここに残しておきたいと思う。

 

私は夜の大学がとても好きだ。静かで暗くて、どこか疲れた人たちが、学ぶ為にやってくる場所。

4年間、働きながら大学へ通った。パートの給料と奨学金で学費と生活費をまかなった。

午後4時に事務の仕事を終え、その足で大学に向かう。

夕方の早稲田駅は帰路につく学生たちでごった返す。駅へ向かう大きな流れに逆らって、私はキャンパスを目指した。

本屋、100円ショップ、マック、コンビニ、てんや、カレー屋、たこ焼き屋、定食屋、八幡様、(ときどき焼き芋屋)そして正門。

文学部キャンパスの入口には、大きなスロープと、それに寄り添うように並ぶメタセコイアの木々があった。

隙間なく立てられた自己主張の強い看板と、天に伸びるメタセコイアの木。スロープを最後まで登っても、そのてっぺんにははるか届かない。背の高いそれらの木は、キャンパスの様々な場所から見ることができた。私たち文学部の学生は、この木に見守られて長い学生生活を送る。

私は今でもメタセコイアの木が大好きだ。

学食で早めの夕飯を食べた後、中途半端に余った時間で、昼の学部に通う彼(今の主人)と短い会話を楽しんだ。吸えないタバコを吸っていたあの喫煙所は、いまは清潔感のある中庭になっているらしい。

文学部の建物は歴史を感じさせるものが多く、冬の日は身体が芯まで冷えきった。新しい校舎は快適すぎて、よくウトウトしていたから、くたびれた私にはそれくらいの厳しさがちょうどよかったと思う。

人の少ない静かな廊下、触れると冷たい灰色の壁、教室の端のストーブ、古い蛍光灯の音。窓を覗けばいつだって、少し疲れた顔が写った。

夜の教室には活気がない。先生の声はコンクリートに反射して、ようやく生徒の耳に届く。彼らの疲れた身体は、好奇心が支えている。

語学、文学、演劇、映画、評論、修辞学、文芸演習、心理学……。多くのものを教わった。長い年月を経て、得た知識はすっかり忘れてしまったけれど、楽しかった感情だけは今でも色褪せることはない。

授業が終わって大学が閉まるまでの時間、私はいつも記念会堂前のベンチに座って、広場でサークル活動をしている人たちを眺めていた。ホッとできる時間だった。

ガラス戸を使って、ダンスを練習する人たち。
インラインスケートを滑っている人たち。
筋トレやストレッチをしている人たち。
発声練習をしている人たち。
何かの主張を練習している人たち。
ただダベっているようにしか見えない人たち。

時々、街灯の明かりで本を読んだりした。

私にとって、人生で一番楽しい学校生活だった。

「学校」

現在、日本の夜間学部はその数を減らしている。働きながら学ぶ学生が減り、またインターネットの普及で、誰でも時間と場所を選ばず、より自由に好きなものを学べるようになってきたからだ。

困難があったり、環境に恵まれない人たちにも「本格的な学び」は提供されはじめた。「教育を受ける権利」は昔に比べ、平等に近づいてきている。「教育」は新しいフェーズに入った。

学びたいと思った時に学べる。そんな当たり前のことが、当たり前にできるようになること、私はそれをとても嬉しく思う。

でも同時に「夜間学部」の役割は、本当に終わってしまったのだろうか?と疑問にも思う。

学ぶための場所は生活と区切られていることが望ましい、と私は考えている。「生きる」という行為から切り離された空間で、心の赴くままに知識へと手を伸ばす。生きるために学ぶのではなく、単純に「自分が知りたい」から学ぶ。

そのわがままさを、周りを気にすることなく発揮できる枠組みとして、「現実世界の学校」は、この先も必要なんじゃないかな、と思っている。

世の中にはたくさんの人たちがいる。たくさんの「学びたい人たち」がいる。たくさんの「学びを必要としている人たち」がいる。

大学に行きたいけれど、
明るい場所で、多くの人と活動するのが困難な人がいる。
経済的理由で昼に通えない人もいる。
働きながら知識を得たい人もいる。
人生の後半に好きなものを学びたい人もいる。

多くのマイノリティの受け皿として、夜間学部は機能していた。夜の冷たい校舎には、求め訪れるものを黙って受け入れる温かさがあった。

性別も、年齢も、人種も、職業も、思想も関係なく、平等に「学生」として存在できる場所。存在しても良いんだと、自分を肯定できる場所。

日常生活を忘れ、知的な世界に没頭できる場所。

私の望む「学校」の姿が、10年前のあの場所には確かにあったと思う。そして私はその場所が、本当に本当に好きだった。

 

 

私の話はこれでおしまい。最後まで読んでくれて、ありがとう。

さて、明日は何を書こうかな。